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2005/01/28
思い出の一冊 #02 オルテガ「大衆の反逆」

執筆者: sueyoshi (6:46 am)

ご無沙汰しております、末吉です。年末はクリスマスイブに尿路結石という病気にかかり人生初の救急車に試乗してしまいました。あの痛みは、言葉にし難いものがありますね。CTによるとまだあと2個!石が腎臓に残っており、いつ落ちてくるかは神のみぞ知るといった感じです。外出時は座薬とペットボトルを持ち歩く毎日ですが、本年もよろしくお願いします。

正月に姉を迎えに羽田空港まで行くと、今年は日韓国交正常化40周年記念だそうで、どこもかしこも"日韓友情年2005"の垂れ幕いっぱいで少々うんざり。テレビ局あげての自称韓流(はんりゅう?と発音するらしい)ブーム作りに吐き気を覚える私ですが、今年も昨年にまして、また空港でこの世のものとは思えない醜悪なおばさんたちのお出迎えシーンがニュースになることでしょう。

私にとって今年2005年の一大イベントは、日韓国交正常化40周年では断じてなく、日露戦争の日本海海戦勝利(1905年5月27日)100周年です。今から100年前の列強渦巻く極東で、我々の誇り高き先人たちが国の運命を背負って、ロシアバルチック艦隊を対馬沖で撃沈した(日本では日本海会戦ですが、英語ではBattle of TSUSHIMAと呼ばれています)記念すべき年です。我が母校鹿児島中央高校の図書館側の理科室(?)付近が、連合艦隊司令長官東郷平八郎(1847-1934)の生家です。

東郷平八郎や名参謀秋山真之(1868-1918)の活躍は、司馬遼太郎の「坂之上の雲」に譲るとして、今回は明治期のまだ侍のDNAを色濃く残していたリーダーたちの行動様式(エートス)と現代の人権という薄っぺらい意識の中で尚武の精神を徹底的に低く見るエートスを一考し、スペインの哲学者オルテガ(Jose Ortega y Gasset:1883-1955)の「大衆の反逆」を紹介します。

オルテガは、1883年マドリッドで、スペインの有力新聞「公正」創立者の母、「公正」の編集主幹を務める父という、ジャーナリスト一家の中で生を受けました。27歳でマドリッド大学の形而上学の教授になるなど頭脳の明晰さと共に、スペイン内乱の中で政治活動にも従事した経験をもつという、古き良きヨーロッパの騎士道を体現するような人物でした。そんなオルテガの不朽のベストセラーとなったのが「大衆の反逆」です。オルテガは、産業革命以後の社会で「大衆人」という今までのヨーロッパにいなかったタイプの人間の出現に警鐘をならしました。オルテガは人間を2種類に分類します。"第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、(中略)したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のままに漂う浮標のような人々である(注1)"

オルテガは、前者のような人々を「選ばれた少数者」、自らの利害のみで自らの言動および社会に責任をとろうとしない後者を「大衆人」という表現をしています。ここで、注意しておく必要があるのは、オルテガのいう「選ばれた少数者(=エリート)」とは、いわゆる東大法学部を出て官僚になった人物をさすのではなく(社会階級ではなく)、当人の意識・意欲の問題であります。エリートというと、とかく日本では、言外に「鼻持ちならない」などのニュアンスを込めますが、もともとの意味は、ラテン語から派生された
■elite=e(外に)+legere(選ぶ)=選び出された
=<名詞>エリート、選ばれた者、精鋭
という意味で「選ばれたもの」とい意味が第一義になり、エリート自体にネガティブな原義はありません。エリートという言葉に抵抗がある方は、「利他主義」といいかえてもいいと思います。「利他主義」とは、英語ではaltruism(アルトリズム)といい、利己主義に対して、自分よりも他人の利益を優先する考え方のことをいいます。

リベラルという言葉と同じようにもともとは、「〜からの自由」という原義だったものが、今では、すっかりアカっぽい言葉となってしまいました。余談ですが、アメリカなどに留学する機会ができた場合、"He is leberal."といったような表現は、言外に「現実を直視できない、理想主義者」ぐらいのネガティブな意味も含まれますのでご注意を!言葉って本当に難しいですね。

"エリートというのは、社会のために、自分の利益と関係なく、その社会のためにしなければならない、してあげたい、やらざるを得ないという特別の責務を受諾する人のことであると。つまり、「断れれば簡単に断れるのに、ご苦労様に、そんな苦労を進んで引き受けるなんてそんな馬鹿な」というのが大衆人であって、「だからこそやるのだ」というのがエリートです。"(注2)

オルテガは、社会の理想的状況をエリートと大衆人とのダイナミックな統一(それぞれが分をわきまえて生活する)であると仮定します。オルテガの指摘する社会の危機とは、力を持った大衆人がエリートの存在を否定することによって、特別の責務を受諾するエリートが激減したときです。その場合、その社会は消滅するか滅亡寸前にあることになります。

東郷平八郎をはじめ、明治期の軍人・政治家にすがすがしい潔さを感じるのは、国家のそれぞれの意思決定機関に本物のエリートが存在していたからではないかと思います。思い起こせば、戦後の教育というのは、人権という名の下に、あまりにも自己の権利ばかり追求する大衆人を大量生産してしまった結果、志の低い、品のない国になってしまった感があります。

戦前の社会から何を学ぶかは、個人の自由(聞いてますか?アカっぽい方々!)です。戦争中の日本軍の悪態だけを針小棒大にとりあげ、世界中を「日本を訴えませんか?」と飛び回っている気色悪いプロ市民(活動で生業をしている団体)とは違う形で、私なりに戦前の反省をするならば、それは、「利他主義の強要」だったかと思います。近代化を急ぐあまり、本来自分の利益を超えて他人(家族、地域、国家)に貢献したいという気持ちは、本人の内側から醸し出されるものであるはずが、国家から強制された点にあったと思います。

明日から、自分の生き様を急に利他主義に変えていきましょうとは申しませんが、まずは身の回りのことから考えて今自分がこの世に生を受けていられるのは、両親のおかげ、両親があるのは、またご先祖様のおかげ…、自分以外の何か(親、先祖、国家、文化等)に生かされているんだという感謝の気持ちを持つことからはじませんか。

今から100年前に我々の先祖が命がけでこの祖国を守ってくれなかったら、私は34年前の鹿児島で生をうけていなかったであろうし、たいていの日本列島に住む住人は、○○スキーというロシア名になっていたかもしれません。

大衆人から一歩離脱を目指して、東郷平八郎の会戦電信より
"皇国ノ荒廃コノ一戦ニアリ各員奮励努力セヨ"
(来週あたり、横須賀に戦艦三笠を見に行こうっと)



■参考文献
(注1)オルテガ,神吉敬三訳「大衆の反逆」,ちくま学芸文庫,17-18貢
(注2)小室直樹・色摩力夫共著,「人にはなぜ教育が必要なのか」,総合法令,164貢

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